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リヨン
紀元前1世紀半ばのローマ時代にさかのぼる古い歴史の町リヨンに、二人の聖人が活動していた。306年頃に生まれたユストスと360年頃に生まれたヴィアトールである。4世紀中頃のリヨンには、キリスト教の迫害と殉教の時代が終わり、ようやく宗教的な平和が訪れていた。しかしその平和はキリスト教的完徳を萎えさせ、そのため神に近づこうとする人は、「砂漠や荒れ野での隠遁生活」の勇猛で禁欲的な殉教者の道を求めるようになった。ユストスは高貴な家系の出身でマカベア教会の司教として働いていたが、教えと徳が際だっていたためリヨンの町の人から信頼されていた。一方、ヴィアトールは教育を受けることができる経済的家庭の出身で、ユストスの読師の役、聖書の管理、パン(ご聖体)や初物の祝福、人への信仰教育、あるいはキリスト秘儀の解釈をする役目を果たした。いわばユストスの秘書であり、ユストスに大層信頼されていた。ユストスが司教職を辞しエジプトに行く決心をした時、ヴィアトールにのみ告げた。ユストスを巻き込んだ悲劇的事件は、狂人が手に剣をもって通行人を殺傷した後、教会に逃げ込んだことから始まる。ユストスは怒る群衆をなだめ、狂人を安全に監獄に護送することを約束させて引き渡した。しかし群衆は約束を守らず、その男を殺した。この不幸な出来事に対する責任から贖罪のためにエジプトに身を引き隠棲しようと決意したといわれるが、「砂漠での祈りと死滅」は以前からユストスの心にあったとも考えられている。ユストスが身を隠してエジプトへ旅立ったのは381年、彼が75歳の時であった。その2日後、ヴィアトールはユストスを追い、ナルボンヌの港で再会した。リヨンに戻る様に諭されたが、ヴィアトールはユストスの膝にすがりつき同伴を懇願したと記録されている。
エジプト
より高い聖性を熱望し僅かの名声も避け、無名な生活を望んだ二人は、エジプトのスケティスの砂漠を選んだ。それは現在のナイル河口北西部、ワーディー・ナトルーンにある聖マカリオス修道院を目指したのである。最初の砂漠の隠修者、師父アントニオス(251年〜356年頃)を信奉したマカリオス(300〜390年頃)が立てた修道院で、彼はエジプト修道院運動の中心的存在で偉大な霊的指導者となっていた。食事は日に1回、多くはパンと水だけであったが、時に火が通っていない生の野菜とオリーブの実、塩、塩漬けの小魚を食べた。驚くべき厳しい戒律のもと、睡眠時間は3〜4時間の、労働と祈りの修道生活を二人はおくった。たまたま訪れたガリア人(修道士とも言われる)がユストスにひざまずき接吻したことから二人の素性が知れ、このことはリヨンの町にも届き、厳しい隠棲に至るまで司教ユストスに忠実に従ったヴィアトールへの尊敬も高まった。後にリヨンの司教になるアンティオクスは二人を迎えに行くが、砂漠で死ぬことを決意した二人に驚嘆し、二人が亡くなる390年まで砂漠に残った。粗末な筵に横たわり、兄弟の祈りに支えられてユストスは最期を迎えたと思われる。悲しむヴィアトールに「心配することはない、あなたは間もなく私のところに来るであろう」と語り、ユストスは10月14日眠りについた。そして預言通り師が亡くなって7日目、390年10月21日にヴィアトールも帰天した。
リヨンへの帰還
聖性と卓説した徳の二人にリヨンの人々は特別の崇敬を持ち、リヨンに391年8月4日戻った二人の遺骸を迎え、マカベア教会に葬った。この教会は後にユストス教会と呼ばれる。フランス革命時、1793年リヨンの攻防戦で聖ユストス教会は破壊されたが、遺骸の一部を持ち出す事に成功し、その時期から人々はユストスから切り離して、ヴィアトール自身の従順で謙虚な読師の姿に敬意をもつ様になった。ケルブ神父は、ヴィアトールを修道会仲間の模範とし、修道会の守護聖人とした。こうして聖ヴィアトール修道会の発展と共にヴィアトールの名が世界に知られるようになっている。
誕生
1789年に始まったフランス革命の嵐は、1793年5月にはリヨンにも及び、革命軍は綿織物と印刷業で栄えた美しいリヨンの町を破壊し、聖職者の逃亡と処刑のためにキリスト教も迫害された。この恐怖政治下のリヨンで 1793年8月21日ルイ・マリ・ケルブは誕生した。
青春時代
1801年政教条約によって教会が復活した。
1808年彼が15歳の若さで終生貞潔の誓い(注1)を抱き、1812年10月(19歳)サン・イレネ神学校入学。並はずれた記憶力、驚くべき状況把握、迅速・正確な判断力を持つ聡明な青年であった。
教育者への道
若くして青少年の教育と部下の養成という高貴な志を持ち、1816年6月(23歳)助祭の時、聖職者養成学校で教え始めた。12月にはサン・ニジエで司祭となり、その学校を任された。サン・ニジエ教会は聖ユストスと、後に守護聖人と仰いだ聖ヴィアトールのゆかりの教会である。25歳の時、革命時に同僚の聖職者を裏切った一人の背信司祭に対し最期の秘蹟を与え、神の許しと愛を諭したエピソードは彼の揺るぎない信仰を象徴している。1822年ヴールの主任司祭になり、宗教から離れていた人々の心を取り戻し、1825年廃墟となった教会を立て直した。
修道会設立
田舎の貧しい子供に対する教育のために、聖歌の編集「小教区用聖歌」、「読書法」、「小学校の算数」などの教科書の執筆にも能力を発揮した。ヴール時代に「敬虔なキリスト教信者の教育者の仲間を作る」という斬新なイメージを抱くようになった。そのイメージはトレント公会議の意向にそったもので、独身主義者も結婚する者も共同の会員である修道会を実現することであった(注2)。しかしこれは後々修道会設立の妨げとなり妥協を余儀なくされる事になる。1829年8月、聖ヴィアトール愛徳教育会の学校規約について文部省の承認を得たが、司教に反対された。1830年1月、名称を聖ヴィアトール修道会として王の許可は得られたが、司教の許可がおりたのは約4年後であった。1838年、教皇からの承認を求めてローマに旅立ち、3ヶ月ローマに留まり許可を待った。こうしてようやく新しい会の規則を教皇グレゴリオ十六世が承認し、ケルブ神父は聖ヴィアトール修道会初代総長に就任した。財政難と適切な人材の欠如などの困難を乗り越え、フランスだけでなく、アメリカ、インド、カナダへと修道会活動を発展させたが、1859年9月1日(66歳)、病気のため帰天。
注1)カトリック教会では、聖職者(神父・修道士・修道女)に対して、清貧・貞潔・従順の三つの誓願を宣立することによって法的な修道者として公式に認知されるが、この誓願のうち清貧の誓願に関して、私有財産の放棄を無条件に誓う誓願を「荘厳誓願」、一定の条件のもとに財産の私有が認められる「単式誓願」がある。
注2)誓願を宣立した修道者の団体である修道会の使命に協賛し、各自の生活が許す限りでその活動に協力する在俗信徒の団体。「準会員」という名称にて現存している。
引用・参考図書:「聖ヴィアトール」聖ヴィアトール修道会 京都 2001年10月発行
愛の父なる神よ
生き生きとした輝かしい信仰の人ルイ・ケルブによりあなたを誉め讃えます。
彼は、み国のために尽くし、聖母に身をささげ、青少年、ことに貧しい子供たちへの教育にたずさわり、牧者として仕えました。
彼の目指したものは、キリストのみ言葉にしたがって、信仰を生かし、深め、讃える共同体を生み出すことでした。
あなたの霊によって、この共同体が神を証し、発展し、使命を果たしますように。
ルイ・ケルブが地上でも栄光を受け、教会において教育と信仰の模範とされますように。
わたしたちの主、イエス・キリストによりお願いいたします。
アーメン。
ケルブ神父様の年代記 | |
1793年8月21日 | 午後3時に誕生。洗礼を受ける。 |
1807年2月2日 | 堅信を受ける。 |
1807年3月28日 | リヨンのフェシュ大司教から剃髪式を受ける。 |
1808年? | 貞潔の誓願を立てる。 |
1805年-1812年 | 聖ニジエー神学校に入学。デプラス・ギー・マリー先生に出会う。 |
1812年7月24日 | 文学士の称号を取得。 |
1812年10月31日 | リヨン聖イレネー大神学校に入学。 |
1812年ー1816年 | 大神学で学ぶ。 |
1815年6月23日 | グルノーブルのシモン司教から副助祭を受ける。 |
1815年の秋 | 聖ニジエー神学校で教える。 |
1816年7月21日 | ニューオーリンズのヂュブール司教から助祭に叙階を受ける。 |
1816年12月17日 | 司祭に叙階される。 |
1817年2月13日 | 聖ニジエー小教区の助任司祭に任命される。 |
1821年 | ツールの聖マルチン宣教師修道会の院長を依頼されたが断る。 |
1822年10月25日 | ヴールの聖ボネー小教区の主任司祭に任命される。 |
ヴールの小教区は物質的にも精神的にもひどい状態であった。 | |
1823年の秋 | 女子のための学校を設立する。(聖チャールズ修道会のシスターに任せる) |
1824年の秋 | 男子のために学校を設立する。ピエール・マゴーは先生と聖具管理係に雇用する。 |
1823年ー1828年 | ヴールの小教区を立て直す。 |
1826年12月 | この頃「会の最初の計画」を思いつく。 |
1829年1月20日 | 聖ヴィアトール・カテキスタ会と呼ばれる慈善団体の規約を作る。 |
1829年2月13日 | 政府の認可を受けるために運動を開始する。 |
1829年8月8日 | 「聖ヴィアトーカテキスタ会を認可する公教育王立評議会の決定がなされる。 |
1829年の秋 | トラピスト会のドン・アウグスティヌス・デ・レストランジの伝記を出版する。 |
1830年1月10日 | 「聖ヴィアトール学校愛徳会」とその規約を認可する王の勅令が出される。 |
1830年 | 「読み方の原義」の本を出版する。 |
1831年3月9日 | ブール・アルジェンタルの主任司祭に任命されたが政府が認めなかった。 |
1831年11月2日 (3日) | リヨンのガストン・デ・ペン司教が聖ヴィアトール聖職者会を承認する。 |
1831年11月5日 | 聖ヴィアトール修道会員としてケルブ神父が教皇の前で誓願を立る。 |
1831年11月11日 | 二人の新しいメンバー「マゴー・ピエールとリアトー・ピエール」が加入。 |
1832年の秋 | フランシェヴィル、ブリネー、パニシエル三か所に最初の学校を設立する。 |
1833年7月 | マリスト修道会と合併するプロジトを発足する。 |
1833年12月11日 | リヨンのガストン・デ・ペン司教がヴィアトール修道会の会憲を認可する。 |
1836年 | 聖ヴィアトール修道会の規則書公刊する。 |
1838年5月8日ー10月14日 | 教皇からヴィアトール修道会の認可を受けるためローマを訪問し滞在する。 |
1838年9月21日 | 教皇グレゴレー16世が聖ヴィアトール修道会を承認する。 |
1838年9月27日 | 教皇グレゴレー16世の前でケルブ神父は終性誓願を立てる。 |
1839年5月31日 | 使徒書簡を教皇から受理する。 |
1839年5月 | ニエヴレ市で小神学校を設立する。 |
1841年10月21日 | 会員6人をアメリカのセントルイスへ派遣する。 |
1844年6月3日 | 聖フロア教区の聖オディロン修道会と合併する。 |
1844年10月4日 | 会員6人をインドのアグラへ派遣する。 |
1845年10月6日ー11日 | 修道会の最初の総会を開催する。 |
1847年4月 | 会員3人をカナダのジョリエットへ派遣する。初めて布教活動が成功する。 |
1848年 | アルジェで布教活動を行うことを検討する。 |
1849年1月ー2月 | アルジェを訪問する。 |
1851年3月15日 | フランス全国でヴィアトール修道会が認可される。 |
1854年6月29日 | ロデスの聖ヨハネの修道会と合併する。 |
1855年10月ー11月 | カナダのモントリオールのブルジェット司教がヴールに滞在する。 |
1857年 (1858年)11月 | リオトー・ピエール会員が帰天する。 |
1859年春 | ケルブ神父が大病を患う。 |
1859年9月1日 | ケルブ神父が帰天する。糖尿病などによる。 |